神経症 I
二 逆説思考と反省除去 p173
われわれが期待不安に対して逆説的思考という治療方法を選ばねばならなかったと同様に
———類比的に観察強迫は反省除去を矯正策として必要にすることが明らかである。
逆説的思考が患者に、神経症を皮肉る力を与えるのに対し、
患者は反省除去のおかげで症状を無視することができるのである。
反省除去はしたがって結局、自分自身を無視することを意味する。
ベルナノスの『田舎司祭の日記』いつぎのような美しい文章がある。
すなわち「自分をにくむことは、人が思うよりもやさしい。
恩寵は自分を忘れることにある」と。
ところで、われわれはこの言葉を次のように言い換えたいのだが、
それはたくさんの神経症的人間がいくら肝に銘じても過ぎることのないものである。
すなわち、自分を軽蔑しすぎたり(良心的すぎること)
または自分を注意しすぎる(意識的すぎること)よりはるかに大切なのは———
これよりはるかに大切なのは、自分をすっかり忘れ去ることである。
ただし、そのためにかえって患者がカントのようになってもいけない———
カントはあるとき手癖の悪い召使いを解雇せざるをえなかったが、
しかしそのための苦痛に耐えることができず、
むりに忘れるために、
部屋の壁に「召使いのことは忘れなければならない」と書いた板を吊るしたのである。
こうして彼は、
銅から金が作れると約束されたものの、
ただ一つの条件として、
その錬金術の間は10分間ずっと
カメレオンのことを考えてはいけないと申し渡されたあの男のような有様だった。
そう言われただけで男は、
それまで夢にも考えたことなどなかったこの不思議な動物のほかはなにも考えられなくなってしまったのである。
そうなってはいけない。
私があるものを無視する———つまり要求された反省除去を行う———ことができるのは、
ただ、私がこのあるもののそばでふるまう、
つまりなにか別のものをめざして生きることによってのみである。
われわれが自分の不安から自由にされるのは、
自己観察やまして自己反省によってではなく、
また自分の不安を思いめぐらすことによってでもなく、
自己放棄によって、
自己を引き渡すことによって、
そしてそれだけの価値ある事物への自己をゆだねることによってである。
2 反省過剰の臨床と反省除去の技術 p179
II 話すこと
ゲルハルト・Bは19歳であるが、5歳のときから言語障害に悩んでいる。
しかも、彼のすぐそばに雷が落ちたことがあり、
その同じ瞬間から彼は一週間話すことができなくなった。
彼は5ヶ月間精神分析の治療をうけ、
あらに4ヶ月間言語と呼吸の練習をした。
われわれは彼に、彼がしなければならないことはとりわけ一つのこと、
しかもよい話し手になろうという野心をひと思いに棄ててしまうことだと、
説明しようと努力した。
———「それがこの私にはあるのです」と彼は即座に言う。
われわれはさらに、彼がよい話し手になることを断念する程度に応じて、
まさにその同じ程度だけ彼が実際によい話し手になるだろう、と説明する。
なぜなら、その時彼は、どう話すかではなく、
何を話すかを目指すようになり、
またもっとうまく話すように調整されることになるからである。
私は、できるだけよいあるいはさらにもっともよい話し手になるために、
話術それ自体を目指せば目指すほど、
ますます私は話術の内容と対象に関わることができなくなってしまう。