知の教科書 フランクル 諸富祥彦

 

9 心理ー精神拮抗作用 p173

「心理」と「精神」の拮抗

 

自分の鼻の形が気になって仕方がない。

どうしても気になってしまう。

気になって、気になって、人前に出られなくなった。

外出不可能になり、

通っていた大学や勤めていた職場を辞めざるをえなくなった。

もったいない話であるが、こういうことは少なくない。

こうして人生が狂ってしまうから、心理的な症状はこわいのだ。

 

「自分の顔がどう見られているか気になって仕方がない」という「症状」を

こちらが気にすればするほど、

それとの闘いをなくそうとすればするほど症状は悪化していく。

さらに気になる度合いがましていき、

家にこもって他者との接触を一切断ってしまうことも少なくない。

これは「自分」という「主体」が飲み込まれ「症状に支配されてしまっている」状態である。

自分という「精神」の主体が「心理症状」に圧倒されてしまっている状態である。

 

日本生まれの心理療法である「森田療法」は、「あるがまま」を説く。

自然体の自分であれ、などという理想を説いているのではない。

「自分の顔が他人にどう映るか、身悶えするほと気になる」のであれば、

「身悶えするほど、気になっている」そのままでよい。

気になってしまうのをやめるのではなく、

「あぁ気になってしまっているなぁ」とそのままにして、

自分の眼前にあるなすべきことをおこなっていく。

するとそうこうしているうちに、

症状との間に必要な「距離」がとれてきて、

その人は「自分という主体」を取り戻すことができる。

症状そのものは消失しなくても

(以前と変わらずに、自分の顔がどう見られているか気になっていても)、

それと闘うのをやめて「自分」の「主体」が取り戻されていく中で、

生活の質は格段に向上していく。

 

フランクルの「心理ー精神拮抗作用」という考えも、森田療法に似たところがある。

わかりやすくいうと、

「心理症状」とじょうずにつきあうことができる「精神主体」の海風が

治療の要であるということである。

 

自己解離の力 p179

 

吃音に悩んでいたある中学生がクラスで劇を演じることになり、

そこで彼が「吃音」のある人の役をうまく演じようとしたところ、

まったくどもれなくなったという例も示されている。

 

フランクルは、人間の自己離脱の力には個人差があるので、

逆説思考はむやみに用いられるべきではないこと、

各々の状況に応じてその適用の限界をわきまえるべきであることを指摘している。

特に「うつ病」に逆説思考を用いることはきびしく禁忌とされている。

 

10 脱内省ー自分の内側を見つめるのは、やめなさい p180

 

自分を見つめるのをやめる工夫

 

昨今、「自分探し」について批判的に語られるように、

私たちが一人で自分の内面を見つめすぎていると、

しばしば余計な混乱につきまとわれる。

自分でも考えても仕方がないと思うことをぐるぐる考えてしまう。

考えれば考えるほど、頭の中がこんがらがってしまう。

 

それでも、考えてしまう。そんなときがある。

 

こんなときは、考えるのをやめること

自分を見つめるのをやめることが肝要だ。

考えれば考えるほど、自分を見つめれば見つめるほど、

頭の中が混乱してがんじがらめになってしまう。

 

そんな人に必要なのは、

「考えない習慣」をつけること。

自分を見つめるのをやめることだとフランクルは考えた。

 

人間には「つい考えてしまう」という悪い「心の癖」がある。

この「心の癖」と距離をとる必要がある。

これは先に見た心理ー拮抗作用がゆえに可能となることだ。

 

心の症状とのじょうずなつきあい方

 

くり返しになるが、日本生まれの神経症の治療法である森田療法と似ている。

森田療法では患者の不安や症状に関する訴えには取り合わない。

患者が自分の症状に目を向け過ぎると、

意識はますますそれにとらわれてしまうからだ。

そして不安や心配事は無理に消し去ろうとせず、そのままにして、

「あるがままに、なすべきことをなせ」と言う。

 

フランクルの考案した「脱内省」では患者に、

自分の内側で生じている混乱や症状に目を向けるのをやめよと説く。

そして、自分のなすべき仕事や愛する人そのものへ意識を向け変えよと勧めるのである

(ここで明確に意識の方向づけをおこなう点である、森田療法と異なる点である)。

しかしどちらも、症状や不安と闘うことでさらにそれを悪化させてしまう悪循環から

患者の意識を解き放とうとする点では共通している。

 

性の悩みと「脱内省」

 

インポテンツや不感症の場合、

男性が自分の性交能力を示そうとしすぎてかえってその目的が達成できなくなっているか、

女性がそのオルガズムの能力を示そうとしすぎてかえってその目的が達成できなくなっているか、

いずれかである場合が多い。

一般に人間の快楽には、それを直接追い求めようとすればするほどそれを獲得できなくなるという法則があるが、

性的快楽の場合も同様である。

 

男性であれ女性であれ「うまくセックスしなければ……」と考え始めると、

愛しているはずの相手にではなく、自分自身に注意が向き始める。

セックスの間中、相手ではなく、自分のことを見つめているのである。

その結果、インポテンツや不感症といった症状が生まれる。

 

ここには自分自身についての「意識過剰」という病がある。

現代人はとかく自分を見つめ、自分に注意を注ぐあまり、

その本来の目的を見失ってしまいがちである。

セックスの場合であれば、自分がうまくできるかどうかに注意を注ぐあまり、

その本来の対象である愛する人に注意が向かなくなりがちなのである。

これではまるで、どんな順序で足を動かすのかたずねられて、

そのことを考え始めた途端足を動かすことができなくなり、

飢えて死んでしまったムカデのようである。

 

なかなか手厳しい指摘であるが、本質を突いている。

性に関する悩みの多くは、「自分がうまくできるかどうかに注意を注ぐあまり、

その本来の対象である愛する人に注意が向かなくなってしまった」結果、

生まれているというのである。

 

現代人を悩ましているものの一つは、「過剰な自意識」である。

現代人はとかく自分を見つめ、自分に注意を注ぐあまり、

その本来の目的を見失っていまいがちである。

セックスの場合であれば、自分がうまくできるかどうかに注意を注ぐあまり、

その本来の目的である「愛する人とのふれあい」を忘れてしまいがちになる。

フランクルの説く「脱内省」という方法は、

現代人のこうした自意識過剰なあり方そのものの見直しにつながるものである。

 

11 あなたがこの世に生まれてきた「意味」

  あなたの人生に与えられた「使命」

 

人生からの問い p191

 

人生は私に、何を求めてきているのか。

人生からの問いに対して、私は何ができるのか。

 

こう自らに問い、人生からの問いに懸命に答えていくことに、

人間の本来のあり方をフランクルは見出した。

人生からの問いに懸命に答えていく中で、

人は、本来の自己になる。

本来の自己へと生成していくのである。

 

そして、人生からの問いに答えていく中で、人はまた、

その生涯を貫く「天職」に出会う。

生計を立てるための職業にならなくても、

人がその生涯をかけて取り組むに価する「使命」(ミッション)、

「召命」(コーリング)に出会う。

そしてこの「使命」「召命」との出会いこそが、人間の自己形成にとって不可欠のものなのだ。

 

創造価値

 

創造価値––これは、人が何かの作品をつくったり、

日々の仕事を通じて何かを「つくりあげていく」ことによって実現する価値のことである。

芸術家が作り作品然り。会社員が取り組む日常業務然り。

主婦のおこなう家事然り。

心を込めて行っていく仕事のことである。

特別な仕事ではなく、ふつうの多くの人がやっている普通の仕事。

それをフランクルは「創造価値」という枠組みでリフレームすることを提案した。

 

同じ仕事をするのでも、ただのんべんだらりんとやっているのと、

「これは私がなすべき仕事だ」という気持ちで使命感を持ってやっているのとでは、

本人にとっての「意味合い」「価値」が違ってくる。

こうした効果を狙って、フランクルは心理療法の中で仕事を「創造価値」という視点から、

「リフレーム」していくのである。

そうすることで、本人にとって「仕事をすることの意味」が変わり、

毎日の業務が「創造価値」という新たな視点を伴って浮かび上がってくるのである。

 

「創造価値なとというと、何か特別にクリエイティブな仕事を連想する方がいるかもしれないが、そうではない。

私たちがふだんやっている何気ない仕事にも、

実はたいへんな価値が潜んでいることに意識を向けさせることがフランクルの意図である。

 

たとえば化粧品のセールス。

一見誰にでもできる仕事に思われるが、

少し化粧が変わることでずいぶんイメージが変わることがある。

そして、他人の目に映る自分の姿が変わることで、

自分で自分に対して抱くイメージ(自己イメージ)も変わる。

自信に満ち、積極的な性格に変わることもあるはずだ。

こう考えると、化粧品のセールスも他者の人生にずいぶん大きな影響のある仕事である。

 

もう一度、確認しよう。

本人がどのように思っていたにしても、それにかかわりなく、

人間には、それぞれの人の人生が与えた仕事がある。

その仕事はその人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められている。

フランクルは、こう言うのである。

 

毎日の仕事を、ただ「生活の糧」を得るために行っているルーティンワークだと思ってやっていると、

「やりがい」もなくなっていくであろう。

フランクルは、あなたの仕事は「あなたの人生があなたに与えたもの」であり、

「あなただけが果たすべきもの」である。

そこには固有の意味がある。

そういう視点から、日常の仕事を見直してみよ、と言うのである。

 

しかし、そう言われても実感がわかない人も少なくないはずだ。

実際、フランクルが講演しているときに、ある青年はフランクルにこう質問している。

 

先生は精神科医という、人のいのちを救う大切な仕事に従事しておられます。

たくさんの書物も書いておられます。

だから先生の人生には意味があると言えるでしょう。

しかし、私はただの洋服屋の店員です。

私の代わりなど、どこにもいるはずです。

ただの洋品店の店員にすぎない私の人生に、

一体どんな意味があると言うのですか。

 

これに対してフランクルはこう答えている。

 

仕事の大きさは問題ではありません。

大切なのは、その活動の範囲において最善を尽くしているか、

人生がどれだけ「まっとうされて」いるかだけです。

それぞれの具体的な活動においては、

一人ひとりの人間はかけがえなく代替不可能な存在です。

誰もがそうなのです。

一人ひとりの人間に、その人の人生が与えた仕事は、

その人だけが果たすべきものであり、

その人だけに求められているものです。